私立中・高校で理科教員を勤めた後、写真家に。信州伊那谷(長野県南部)を拠点として、身近な昆虫をはじめとする生きものと、生きものがいる自然を撮影し、一般書や児童書をつくっている。出版、テレビなどへの写真の貸し出し、講演・観察会講師なども行なう。著書に『イモムシハンドブック』『新訂 冬虫夏草ハンドブック』など。
ヨーロッパでは古くから筆記用インクとして没食子(もっしょくし)インクというものが使われてきました。このインクは皮でできた羊皮紙にもしっかりと書くことができ、中世から最近まで利用されてきました。没食子とは中近東で得られる虫こぶの一種。人類は長く虫こぶで字を書いてきたわけです。
日本に没食子はないのですが、同じようにインク作りに適したヌルデミミフシという虫こぶがあります。化学的につくられたインクの書き心地いいボールペンが手軽に使える現代だからこそ、ここはあえて虫こぶインクで字を書いてみてはいかがでしょうか。
ヌルデミミフシ
必要量
なべ(ステンレスかホーロー、調理用とは別に)
1個
コーヒーフィルターやペーパーナフキン、さらし布
必要量
さびた鉄くぎなど
必要量
酢
必要量
ゴム手袋
一双
保存用びん
数個
つけペンなどの筆記具
1本
紙
必要量
虫が植物の新芽に産卵したり、幼虫が食べたりといった刺激があると、植物は何らかの反応をします。なかには、一部の細胞が異常に増えて肥大したり、本来は葉になるはずのところが別のものになったりという分化の異常が起きます。そうやってできた、組織や器官が異常な形になったものが虫こぶです。こぶのようにふくらむものが多いですが、後で紹介するように大きさも形状もさまざまです。
これを今回の材料となるヌルデミミフシという虫こぶで具体的に見てみましょう。
関係する昆虫はヌルデシロアブラムシというアブラムシです。このアブラムシがヌルデの木にやってきて、針状の口を刺して汁を吸いはじめます。刺激を受けたヌルデの組織は肥大し始め、やがてアブラムシを取り囲むほどまで大きくなります。その周りの組織は正常に発達して葉になっていき、結果として葉の軸の部分にボコボコとした形状のこぶができあがります。これがヌルデミミフシです。
虫こぶの内部は空洞になっており、アブラムシはそこで次々に幼虫を産み、幼虫たちは吸汁して成長し、虫こぶの中はアブラムシで一杯になっていきます。アブラムシにとって、虫こぶは安全な隠れ家でもあり、食堂でもあるわけです。
植物はなぜこうしたこぶをつくるのでしょうか。被害がそれ以上広がらないように虫を閉じ込めているのかもしれません。目立つことで、中の虫に寄生するハチを呼び寄せているのかという想像もできます。虫に一方的に利用されているだけではない可能性もあります。今後の研究の進展により、どういう仕組みでこぶが作られるのかということとあわせ、植物側の戦略も明らかにされていくことでしょう。
虫こぶの姿はさまざまです。特徴的なものをいくつか紹介しましょう。
ナラメリンゴフシ
コナラなどの枝先につくられる虫こぶで、直径4cmにもなり、陽にあたる面がきれいな赤に色づくことから、5月ごろの雑木林でよく目立ちます。ナラメリンゴタマバチという小さなハチが芽に産卵すると形成されます。こぶの中には多数の小さな部屋があり、それぞれに幼虫が入っています。
エゴノネコアシ
エゴノキの枝先に春に形成される虫こぶで、十数個の房からなる特徴的な姿です。その形からネコの足に見立てた名前がつけられています。エゴノネコアシアブラムシというアブラムシによってつくられるのですが、房の内部は空洞で、それぞれが独立した部屋になっており、アブラムシはそこにいながら汁を吸って成長します。
クヌギハマルタマフシ
クヌギの葉にできる5mmほどの球形の虫こぶです。葉脈に沿っていくつもつくられ、黄色や褐色、ときに鮮やかな赤色になるものもあります。中心に幼虫のための小さな部屋があり、何本もの細い柱によって支えられています。クヌギハマルタマバチというハチによってつくられます。初夏から初秋まで見つかります。
マタタビミフクレフシ
夏、マタタビの果実にできる虫こぶです。正常に発育する果実は細長い卵型ですが、マタタビミタマバエというハエが産卵すると、偏平ででこぼこした形の塊になります。中にはいくつもの小さな部屋ができて、それぞれに幼虫が入っています。これを乾燥させたものは木天廖(もくてんりょう)という漢方薬として利用されます。
虫こぶをつくる昆虫はさまざまです。ここにあげたように、ハエ(タマバエなど)、ハチ(タマバチなど)、カメムシの仲間(アブラムシなど)が多いですが、甲虫(ゾウムシ)、ガ(スカシバガ類)などにも虫こぶを作るものがいます。昆虫以外のダニ、線虫、菌類、バクテリア、ウィルスなどもこぶをつくります。これらも含める場合は「えい」と呼びます。
このように植物と虫の組み合わせによって違う虫こぶがつくられます。『日本原色虫えい図鑑』(全国農村教育協会)によると、日本からは1400種類以上もの虫こぶが記録されているそうです。
ヌルデミミフシの虫こぶにはタンニンという成分が多く含まれています。タンニンは植物由来の水溶性化合物の総称で、ヌルデ以外にもいろいろな植物が被食防御物質として持っています。お茶(チャノキの葉)に含まれるカテキンもタンニンの仲間ですし、ドングリをかじったときの渋味、苦味もタンニンです。タンニンにはタンパク質と結合する性質があり、皮のなめし剤(変性凝固させて革にする)として使われてきました。タンニンという名称もtan(なめす)に由来します。
タンニンには鉄分と強く結びつく性質もあります。両者が結合すると黒い不溶性の物質が生じます。これが虫こぶインクの基本的な仕組みで、タンニンが多い素材ほど濃いインクをつくることができます。
ヌルデミミフシは、このタンニンがとりわけ多く含むことがわかっています。これは古くから知られており、お歯黒という化粧法で使われていたのもヌルデミミフシでした。お酢に鉄を溶かした液を歯に塗っておき、虫こぶからつくった粉を塗って黒くしていたのです。
ヌルデを探そう
実際に野外でヌルデミミフシを探してみましょう。そのためにまずはヌルデの木を探しましょう。ヌルデはほぼ全国に分布する、大きくなっても数mほどの小高木です。伐採地に入り込むパイオニアプランツなので、雑木林の林縁、道端、河原といった明るい環境に生えていることが多いです。
ヌルデは葉が特徴的です。9~13枚の小葉からなる大きな羽状複葉ですが、真ん中の軸の部分に翼という羽根のような広がりがついています。これはヌルデだけに見られる特徴なので識別の決め手になります。夏から初秋に白い小さな花を多数房状につけているのも目印になります。
ヌルデの木があったら、ヌルデミミフシを探しましょう。虫こぶは夏から秋にあるのですが、でき始めは緑色をしているので見つけにくいかもしれません。秋になると紅葉するように黄色~赤味を帯びてわかりやすくなります。晩秋には周囲の葉が減り、中に入っているアブラムシも脱出して手間が省けて好都合なのですが、遅くなりすぎると虫こぶも枯れて目立たなくなります。11月ごろ、ヌルデの葉が色づき始める頃がもっとも探しやすいでしょうか。
ヌルデミミフシが手に入らない場合は、タンニンを含んでいそうな他の虫こぶや植物性材料を試しましょう。ドングリやクルミ、お茶やワイン、柿渋などでもできそうです。チャレンジしてみてください。
虫こぶを採集したら
虫こぶにアブラムシが残っていたら、現場でできるだけ出しておきます。残った虫が気になる方は軒下などにしばらく放置しておきましょう。乾燥品にしておけば保存がきくし、インク作りがいつでもできて便利です。
タンニン液をつくる
虫こぶからタンニンを抽出します。ハサミなどで細かく切り刻んで、なべに入れます。ひたるくらいの水を加え、液がしっかり茶色くなるまで煮込みます。私がやったときは30分くらいで十分濃い液になりました。これを濾過します。コーヒーフィルター、キッチンペーパーを円錐状に丸めたもの、さらし布などを使い、あふれないよう注意しながら少しずつ注いで漉します。できあがったタンニン液はびんに入れておきます。
鉄媒染液をつくる
タンニン液とともに必要なのが、染色でもよく使われる鉄媒染液です。これも作ってみましょう。材料としてはさびた鉄を使います。私の場合は手近に古くなった鉄くぎと園芸用支柱があったのでこれらを材料にしました。
さびた鉄がない場合は、新しい釘(スチールウールなどでも)などを一度酢に浸してから、古新聞などに広げて放置しておくと、さびるので、これを使います。
なべに入れ、水と同量の食酢をひたひたになるくらい加え、ふきこぼれと換気に注意しながら、弱火で煮ます。私は15分くらい煮ました。この液を冷ましてからタンニン液と同じく濾過します。できあがった液はびんに入れておきます。
これでインク作りに必要な二つの材料が手に入りました。
虫こぶから抽出したタンニン液は褐色をしています。色が薄く、これだけで字を書いてもはっきり見えません。このタンニン液に鉄媒染液を垂らしてみましょう。すると、両者が混じった部分がサッと墨のように黒くなります(写真1)。タンニンと鉄イオンが反応して不溶性の粒子が生じているのです。これが虫こぶインクです。写真2は右からヌルデミミフシ、タンニン液、鉄媒染液、2液を混ぜてつくったインク です。色の変化がわかるでしょうか。
さて、字を書きましょう。
小皿で二つの液をよくかき混ぜてから、ペン先につけながら紙に書きます。書いた直後は少し紫色がかった墨色で、時間が経過するにつれて濃くなっていきます。空気中の酸素とも結びついてさらに反応が進むためです。
この二つの液は混合せずに別々にしておいて、使うたびに混ぜて使います。より実用的にするためには、両者を混ぜておいても安定するよう酸を加えたり、書きやすさ向上のために染料や粘り気を加えたりということが必要なのですが、そのあたりは別の資料で調べて工夫していただけたらと思います。
今回筆記具は入手しやすいペン先を使いましたが、野外で拾ってきた鳥類の羽根を加工した羽根ペンなどを使うと、より古典の雰囲気に浸ることができるでしょう。
ちなみに、虫こぶインクは染色にも使えます。木綿の晒し布をタンニン液で少し煮て、鉄媒染液に浸すと、美しい墨色に染め出すことができます。インクも染め物もお歯黒も基本的な原理は同じです。
体験したら、写真をとって『やった!レポ』に投稿しましょう!苦労したことや工夫したこと、感想などあれば、ぜひコメントにも記載してください?。
工業的にインクがつくられる以前、人は天然の色素を使って絵や文字を書き残してきました。植物から取ったタンニンと鉄を反応させてつくる虫こぶインクは、天然と人工の間にある科学的なインクの始まりといえるかもしれません。ヌルデミミフシをはじめ、虫こぶやタンニンを多く含む植物は身近な場所にひそんでいます。それらに出会ったらぜひ、インクづくりに挑戦してみてください。