岐阜県生まれ。京都女子大学卒業。奈良県橿原市の観音寺本馬遺跡の土偶との出会いをきっかけに、各地の博物館、遺跡を訪ね歩き、土偶、そして縄文時代の研究を重ねている。現在は、テレビ、ラジオ、トークイベントなどを通して、土偶や縄文時代の魅力を発信する活動も行っている。東京新聞中日新聞隔週水曜日夕刊に『譽田亜紀子の古代覗き見』連載中。著書に『はじめての土偶』(2014年)、『にっぽん全国土偶手帖』(2015年、ともに世界文化社)、『知られざる縄文ライフ』(2017年、誠文堂新光社)、『土偶界へようこそ』(2017年、山川出版社)など他多数。
前回「縄文人スイッチを探せ!妄想縄文体験をしてみよう」では、食を通して縄文時代を知り、縄文人と私たちとの繋がりを想像しました。私たちの中にアグレッシブな縄文人のDNAが12%存在するという話しでしたね。
そこで今回は、彼らが作り出した人形(ひとがた)の焼物「土偶」を通して、彼らの、そして人間が持ち続ける、祈りの心の想像の旅に皆さんと一緒に出てみたいと思います。
祈りの旅に出る前に、彼らの祈りの道具とされる「土偶」についてお話しします。土偶を知ることで、彼らの世界観の一端を知ることができるからです。そして、そのあと、祈りがもたらしたものについてあれこれ想像を巡らしていきましょう。
「縄文人スイッチを探せ!妄想縄文体験をしてみよう」
https://gogo.wildmind.jp/feed/howto/205
社会の教科書に必ず登場する「土偶」。子供たちは教科書以外にも、ドラえもんの映画「のび太の日本誕生」もしくはその新版などで「ツチダマ」として土偶を見ているかもしれません。そこに登場するツチダマがまたちょっと怖くて。それも悪役として登場しているので、「土偶は怖いもの」と認識されているんじゃないかと内心心配していますが、これは完全に風評被害です!
……ちょっと熱くなりすぎました(笑)。話しを戻します。
土偶とは、縄文時代に作られた人形の焼き物で、現在のところ沖縄県を除く全国から、およそ2万点が見つかっています。その多くが足、腕、身体、頭とさまざまなパーツに壊れていて、全身が揃っている土偶は、このうち1割あるかないかといったところ。
見つかる場所は、竪穴住居の中や、貝塚、ほかには盛土(もりど)と言って使い終わった石器や土器、彼らが食べた食料のカスなどが捨てられている場所から見つかることもあります。時にはお墓の中から見つかることもありますが、多くはありません。
一番有名な土偶といえば、大きなお目目にずんぐりむっくりな体型をした「遮光器土偶」。ドラえもんのツチダマも、この土偶をモデルにしています。遮光器土偶を見ていると、なんでこんな姿形をしているのだろうか?これはもしかして、縄文時代に宇宙人が地球にやってきていて、それを形にして残したんじゃない?と思う人も多いようです(土偶は宇宙人だと言い切る人もいるぐらい!)。
実際は、遮光器土偶もいれば、全く違う形の土偶もたっくさん!います。前回お話ししたように、縄文時代は1万年以上続いた時代ですから、その間に、時代や地方によってさまざまな姿形の土偶が作られたのです。
縄文人は、土偶の用途目的を書いて残してはくれませんでした。したがって私たちは、彼らが作り出し現在まで残されたものを観てしか、土偶が一体なんなのか考えることはできません。と言っても、考えてみたところで、正解は分からないのですが…。
そんな状況ではありますが、自然の恵みに依存して生きていた彼らの暮らしから、「土偶は祈りの道具だったのではないか」と研究者は考えているのです。
皆さん、目を閉じて想像してみてください。
あなたは今、森の中で暮らしています。コメはまだありません。一緒に暮らしているのは、親戚一同。大体、20名ぐらいでしょうか。竪穴住居に暮らし、身の回りのもの全てを手作りし、協力しながら生きています。人間関係が近すぎて腹が立つこともあるけれど、この厳しい自然環境の中では一人で暮らしていけないことを誰もが知っています。だからできるだけ「お互いさんだしな」と思いながら生きることを心がけているのです。これが縄文村で生きる知恵。
洋服だって、毎日使う鍋(土器)だって手作りです。電気もありませんから、日が昇ると活動を始め、日が沈めば、竪穴住居の中にある炉の周りに集まって、火を見つめながらよもやま話に花を咲かせていたのです。
「なんだか今年はクルミの花が少ないみたいなんだ。このままだと秋の収穫に影響が出るんじゃなかろうか」
誰からともなく、そんな話になりました。これは集落にとって大問題です。クルミはアク抜きをすることなく食べられて、カロリーも非常に高い貴重な栄養源。それが少なくなることは、飢えの恐怖にさらされることになってしまいます。
「ねえ、次の満月の夜にお祭りをして、森の精霊に、秋にはいつものようにクルミの実がたくさん収穫できようお願いしたらどうかしら」
「そうだな。最近お祭りをしてなかったし、ちょうど良い機会かもしれんな」
てな感じで集落のみんなで祭りをすることになったわけですが(フィクションです笑)、この祭りの際に使われたのが、土偶だと考えられています。
この話しのように、狩猟採集漁労のもとで食料が安定的に手に入るよう祈ることもあったでしょう。それに加えて妊娠出産、病気治癒など、人知が及ばない事柄に対して、媒介役として土偶をたて、自然界に存在する見えない存在(精霊という人もいます)に祈っていたのではないかとも考えられています。
※絵 スソアキコ『知られざる縄文ライフ』(誠文堂新光社)より
縄文人も人間ですからもっと多くの事柄を祈っていたことでしょう。一説によると、人口が増えたことによって社会が複雑化し、それによって生じた軋轢や悩み事の解消を土偶に祈った、ということも。土偶からしたら「んなこと自分たちで解決してよー」と思うような、なかなか荷が重い任務もあったのではと同情してしまいます。
このように、土偶は常に人々の暮らしとともにあり、彼らの祈りを捧げる道具として存在してきたのです。
縄文人が生きる支えにしてきたと言っても過言ではない土偶。せっかくなので、土偶を観察して縄文人に近づいてみることにしましょう。土偶を観察するときのポイントは3つ!
①土偶と目線を合わせる
②前だけでなく後ろや横、上もみる
③どんな人がどんな目的で作ったのか勝手に想像してみる
①土偶の正面に立って少し膝を曲げ、目線を合わせます。多くの資料館では土偶を上から見下ろす展示になっています。しかし、それでは土偶との距離が縮まりません。正面に立ったら目線を土偶に対して水平にするのです。上から見下ろすのとは違う土偶に出会え、心の距離も近くなる気がします。ぜひともやってみてください。
②展示館によっては後ろや横が見られない場合もあります。その場合、私は展示ケースにへばりつくような形で必死に後ろを見ますが、そこまでオススメしません。怪しまれます(笑)。ですが可能であれば必ず後ろを見てください。前はしっかり作り込んでいるのに後ろは雑だったり、前は澄ましているけど後ろはちょっとダークな雰囲気が漂っていたり。
一定のルールで作られた土偶ですが、縄文人の心の内が造形となって表現されているように思います。それを感じることも土偶観察の楽しみです。
③土偶とひと言で言ってもさまざまな姿形、大きさがあることは前述した通り。妊婦や女性を表現したと言われますが、そうは見えない土偶も山ほどあります。え?これは一体どうなってるわけ?と突っ込まずにはいられない土偶ばかり。研究者は、限られた人、例えばシャーマン(呪術者)や女性が作ったと考えていますが、さて、どうでしょうか。
土偶に出会った時には作り手を想像し、あなただけの物語を編んでみてください。お子さんと一緒でしたら、あれこれ思うままに一緒に話しをしてみるのも楽しいものです。しかし、どんなに考えても答えはありません。けれども、その行為は人間にとって大事なことだと思っています。答えが分からないことを自由に考える。土偶を観察した時にはあれこれ想像して頭を空っぽにしてみてください。これぞ、縄文トリップ!
ではここで耳よりの情報を。
土偶と出会えるオススメの博物館、資料館をご紹介します。
東京近郊ですと東京国立博物館の考古展示室がオススメです。ツチダマのモデルもここにいます。ほかにも教科書で見るハート形土偶や岡本太郎の太陽の塔のモデルになった(と、私が勝手に思っている)筒形土偶もここにいますよ。ただし、展示替えがあるのでご注意ください。
ほかにも國學院大學博物館や、明治大学博物館は都心にあってアクセスもしやすくオススメです。
※各施設の開館状況は、下記ホームページよりご確認ください
「東京国立博物館の考古展示室」
https://www.tnm.jp/
「國學院大學博物館」
http://museum.kokugakuin.ac.jp/
「明治大学博物館」
https://www.meiji.ac.jp/museum/
さて、今回の本題。縄文人にとって祈るとはどういうことだったのでしょう。
土偶は女性である、妊婦であると書きましたが、これは研究者が言う学説です。デフォルメされていると言われればそうかもしれませんが、なんだか違和感があるものも。
いろいろ見た結果、土偶は縄文人が心の内に思い浮かべた見えない存在(精霊とか、八百万の神さまとか?)だったのではないかと、個人的には思っています。自分たちを取り巻く自然環境から感じる、見えないけれど「何かいる」という空気や存在感を、土偶という「形」にしていたのではないか。
では、なぜそんなものが必要だったのか。今でもそうですが、生きていくということは自分ではどうしようもならないことの連続です。科学も医療も発達していない縄文時代であれば、尚さら。食料だってままならないし、出産だって今以上に命がけ。昨日まで元気だった幼子が朝起きたら冷たくなっていた時、この気持ちをどう整理すればよいのか。
全ての命は有限で、誰にでも平等に死が訪れることは知っています。知ってはいるけれど、どうにも理不尽で、なんともできないこの辛い気持ちを慰めるにはどうしたらいいのか。悲しみは深くなり、沼の底に体がドロドロに溶けて無くなっていくような空虚な感覚。それでも人間は生きていかねばなりません。
そんな時、見えない存在に藁をもすがる思いで心を寄せる(祈る)ことで、前に進むことができたのではないでしょうか。
みんなで祈りの祭りをすることもあったでしょうが、土偶を作ることが祈りであり、執着を手放すことだったかもしれないなと想像します。自分の心の内を見つめながら見えない存在と対話し、一心不乱に粘土を捏ねる。思いは粘土に流れ込み、いつしか硬くなった心が解放されていく。もちろん簡単なことではないけれど。
祈ったところで、なんになるのか。お腹も膨れないし亡くなった人は戻ってこない。明日の暮らしだって何も変わらない。祈るよりも目の前にある問題を解決するべきだ、現代人はそう思うかもしれません。確かにその通り。しかし人間は想像する生き物です。祈ることとは、見えない存在を想像し、感じること。そうすることで心を一旦自分の体から引き離し、平常心に戻すための装置(仕組み)だったのではないでしょうか。
私はたまに空を見上げて月に思いを語る時があります。願いごとをするというよりも、一旦心を月に預ける、という感覚です。それだけで心が落ち着くというか。縄文人たちも見ていた月を眺めて心を緩める。お手軽でオススメです。
現実は変わらなかったとしても、心に平穏が訪れることもまた、生きていくためには絶対に必要なことなのです。
現代人も特定の宗教や見えない存在を信じなくとも、お正月になると初詣に行き、お盆になれば先祖のお墓に手を合わせます。なんだか心が落ちつかない時にはお寺のお庭でぼーっとすることもあります。神社の参道に入るだけで、その空気の清々しさにエネルギーをもらえる気がします。
実は私たちの中にも、祈る気持ち、見えない存在のエネルギーを感じる心があるのです。ただ、それを意識するかしないかだけではないでしょうか。
祈りは何も特別なことではありません。縄文人は理不尽で厳しい環境を生き抜くために、祈りとともに暮らしてきました。それがあるから生きてこられたと言っていい。
思うに祈りとは、結果を求めることではないのかもしれません。祈る行為に意味があり、心を一旦違う場所に預けることで、前を向きやすくする。
今、新型コロナウィルスによって世界中が混乱しています。不信感が募ったり、分断が起きたり、経済的に打撃を受けて悲嘆に暮れている人もいることでしょう。自粛の波は、ジワジワと心に影をさしてきて、本当に重い。
そんな時、祈ればスッキリ心も軽くなる。なんてことはありません(笑)。残念ながら、現実は重い。それでも、それでもです。「早く日常が戻りますように」という思いは(祈りというほど大袈裟なものではなくても)今の私たちには必要なのではないでしょうか。
今を生きていくために誰の中にも祈りはある。私は、土偶を見ながら、そんなことを思っています。
「祈りの心」想像の旅に出かけたら、ぜひ『やった!レポ』に投稿して、体験をシェアしませんか? 感想は「コメント」に記入してください。
今回は、土偶を通して祈ることを考えてみました。土偶について正解が分からないように、祈りに関しても正解は分かりません。それは、各々の心の中にあるものだから。
それでも、私たち人間は、どんな時も祈りを持ちながら生きてきました。宗教を信じるとか、信じないとか、そういう話では決してありません。人間が生き物として生き抜いていくために必要なものなのだと思っています。精神論では何も解決しないけれど、それでも「早く日常が戻りますように」と思う気持ちは、支えになるのではないでしょうか。
祈る気持ちって、思っている以上に私たちにパワーを与えてくれるんじゃないかと思っています。
※さらに詳しく知りたい方に《おすすめ書籍》
「知られざる縄文ライフ」(2017年、誠文堂新光社)
https://amzn.to/2SH5iCY
「土偶界へようこそ」(2017年、山川出版社)
https://amzn.to/2SCLjW6
「縄文のヒミツ」(2018年、小学館)
https://amzn.to/2V5sZ9K
私も、月の美しさや輝きに気づいた時、自然となにかの想いを持ってじーっと眺めてしまうことがよくあります。
「月に思いを語る」「一旦心を月に預ける」という感覚、と書かれていましたが、「そうそう、そういうことだ!」と、とても共感してしまいました。私が言葉にできなかった感覚を言語化してくださって、目から鱗でした。
大好きないわむらかずおさんの「14ひきのおつきみ」という絵本の月に感謝する感覚も、とても共感できる感覚です。
特別な信仰もありませんが、「祈る」ことの大切さ、生きる上で必要だということ、気づかせていただきました。